新田五郎のゆかい・おもしろ・ときめき日記

思ったことをブチかます、なんびとたりとも止められねえ

QJ小山田圭吾いじめ記事に対する北尾修一氏(百万年書房)のブログへのリンク

小山田圭吾のいじめ問題 - 新田五郎のゆかい・おもしろ・ときめき日記

上記の私の記事は、ネット上にアップされていた小山田圭吾のクイック・ジャパンに掲載された「いじめ紀行」というインタビューに基づいている。

文中でもいちおう言い訳しているが、原典に当たったわけではないので、当時、インタビューに駆け出しライターとして参加し、当時のクイック・ジャパンの雰囲気も知っているであろう北尾修一氏(百万年書房)のブログのリンクを以下に張っておく。

(私が、リンク先のブログの見解に全面的に賛同しているわけではない。)

 

私個人の話だが、やはり原典に当たらないとダメだな、と思った。それは別に私の認識が、リンク先のブログを読んで劇的に変化したという意味ではない。

だが、やはり原典に当たらないと、違う角度の記事が出た場合、守勢に回らなければならなくなる。

それが気分的にイヤなのだ。

 

また、ネット上の小山田圭吾のインタビュー記事が、意図的に改変されている可能性を私は考えていたが、それは単に「小山田圭吾がいかにひどい人間か」という印象操作のために、自己フォローの部分をバッサリカットするとか、その程度だろうという認識も甘かった、と反省せざるを得なかった。

 

ただ、やはり小山田圭吾がかつて障害者をいじめていたという事実は変わらないと思う。

一方で、彼も謝罪をしている。そのことも事実として受け止めるべきだろう。

 

彼を許す、許さないと最終的に判断できるのは、いじめられた当人やその親御さんなどの近しい人だけである。

 

なお以下のテキスト群は、2021年7月31日夕方を過ぎると読めなくなってしまうようなので、読みたい人はお早めに。

 

live.millionyearsbookstore.com

 

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きどう戦士ガンダム あらすじ

西暦2020年。

人類は宇宙に飛び出し、それぞれ巨大なパチンコ玉の表面で生活していた。

しかし、パチンコ玉はつるつる滑るので、地球連邦政府は高額な値段で、地球でしか製造できない「滑り止めオイル」を宇宙の巨大な、人間たちの住む複数のパチンコ玉に売りつけていた。

 

しかし、パチンコ玉アルファーで一人の天才があらわれた。

アムロ・レイである。

彼は家系ラーメンの油から、パチンコ玉の上で生活しても滑らない油を独自に開発した。

このため、彼の住むパチンコ玉アルファーでは、地球連邦に依存する理由はなくなり独立を宣言。

「ホンダラ王国」を名乗ることになった。

 

アムロ・レイはホンダラ王国初代王様のデギン・ザビの側近として、主にデギンの飼い猫にえさをやりながら、油を製造する生活を続けていた。

 

しかし、猫のえさをひと口食べてみたら、そのショックで死んでしまった。

 

油は製造できなくなり、ホンダラ王国は瓦解。

 

それとはまったく関係なく、「鬼滅の刃」の再ブームが起きたが、作者が「ヤングガンガン」で続編を連載することが決定。

 

ただし、連載の条件としてヤングガンガン編集部の人間が全員、キンタマにデスソースを塗りつけることを強要した。

 

クリスマスの夜、新米編集部員のカイ・シデンは「コツカケ」によって瞬時にキンタマを体内に入れる術を会得、デスソースを塗ることを毅然と跳ねのける。

 

このことが編集部内で問題になり、編集長のブライトは、出入りの印刷業者であるシャアとともに、カイを駆逐することを画策。

 

しかしブライトとシャアの合体攻撃も、カイ・シデンジェットアッパーには勝てなかった。

カイ・シデンのせいで、ヤングガンガンでの「鬼滅」続編連載は水泡に帰した。

「鬼滅」の続編は、「ゼクシィ」に連載されることになるが、カイには自分がやった責任を取るための秘策があった。

 

それは「ヤングガンガン」を「オッパイマガジン」と改称し、付録に二十万円を付けるという企画だった。

カイは過去に金鉱を掘り当てて大金持ちになっており、出版社にはひまつぶしに勤めていたのである。

 

「オッパイマガジン」は、初版三千万部を完売。6億円の損害が出た。

 

このことに強く抗議したのが、バイトのスレッガー中尉であった。

(完)

うまい人のエッセイはすごいね

うまい人のエッセイはすごい。

小山田のいじめ問題のことなんか、ひとつも書いてない。

前回、小山田のいじめ問題について書いて、ものすごく後悔した。

書かなきゃよかった。

 

・障害者をいじめた小山田は悪い

・90年代は異常な面もあった

・小山田はヒドイやつかもしれないが音楽的才能はある

・90年代にはいいところもあった

 

言いたいことは以上のことだけだが、議論の流れとしては、

・小山田は極悪人

・90年代鬼畜ブーム最悪

 

この二点ばかりが出てくることとなった。

もともとツイッターは白か黒かを表現するには適しているが、曖昧なことを表現するツールではない。

それがモロに出た感じだ。

 

あきれてしまったのは「すべての小山田的人物を断罪せよ」みたいな物言いが、直接来た。

「断罪」と言う言葉は使っていなかったが。

何らかの罰を与えよ、というニュアンス。

 

あの~、それ可能だと思います?

ぜったい無理でしょ。すべてのいじめの加害者に罰を与えることは。

ぜったい無理だよ。10円賭ける。

 

90年代はサブカルだけじゃなくて一般人も、今に比べれば相当ヒドイことをしていた。

今で言うパワハラ、セクハラは当たり前。

職場での暴力もあった。

そんな中で、小山田の「事件」が起こった。

時代背景、時代状況を認識してもらいたかったのだ。

 

そう書くとすぐに、

「そんな時代だからといって小山田は許されるのか」というリプライが、直接来た。

 

バカなやつから。

 

そういうことを言っているのではない。

 

侍が日本刀を持ち、政情が不安定になっている幕末には、おそらく平時よりも殺人は多かった。

 

それと同じことが言いたいわけ。

「殺人の多い時代だから殺人を免罪しろ」

と言っているわけではない。

 

だがすぐそういう方向に議論が流れる。

 

それともうひとつは、小山田のパーソナリティーのみから来た言動ではないのではないか、ということ。

ここにも時代背景がある。

もう一度書くが、時代背景があったから問題ないと言っているのではない。

 

なぜわからない?

 

もうアホの相手はしてられん。

ベンチがアホやから、野球ができへん

 

おしまい

 

 

小山田圭吾のいじめ問題

オリンピック・パラリンピック開会式の音楽監督をFPM田中知之が担当、作曲メンバーに小山田圭吾 - 音楽ナタリー

 

ミュージシャンの小山田圭吾が、オリ・パラ開会式の作曲メンバーに入っているということで、彼が90年代に告白した「学生時代にやった障害者に対するいじめ」の話が、まとぞろ再燃している。

 

小山田圭吾が「学生時代にやったいじめ」についてインタビューに答えたのは、90年代半ば頃、クイックジャパンからしい。詳細知りたい人は調べてね。

 

ネットにあがっているインタビューは「抜粋」だから、それだけを読んで小山田圭吾のいじめについてあーだこーだ言うのはあまりフェアではない。もしかしたら、抜粋されていない部分に、いじめ発言をひっくり返すようなことが書いてあるかもしれないし。

 

しかし、まあ常識的に考えて、そういうことはないと思う。何より、小山田をインタビューしているライターが「いじめはエンタメ」とか「いじめられて立ち直れなくなってもそれはそれでポジティブ」とかわけのわからないことを言っているのだ。

「クイック・ジャパン」は、リアルタイムで必ずしもサブカル・オタク少年少女に全面的に支持されていたわけではない。

いろいろと物議をかもした雑誌ではあるが、それにしても、言外に「小山田圭吾は悪くない。いじめは避けられない。それが現実」というトーンで語られ、わざわざいじめられていた人たちに連絡を取って小山田と対談させようとする姿勢には、90年代当時でも私はドン引きしたと思う。

 

ここまでの所業が、ネットで検索したらすぐに出てくるとなれば、小山田がパラリンピックの音楽を担当するとなったらほじくり返されても仕方あるまい。

 

ただし、一般論として、性格のねじ曲がったやつや頭のおかしいやつ(小山田みたいなやつのこと)が、天才的な才能を発揮するのもよくあること。それについての極論としては「連続快楽殺人犯が一流のアーティストだった場合、それは評価されるべきか」という問題に行きつくだろう。

 

さて、「当人の非常識さと何らかの才能は別に存在する」ということを確認したうえで、私が今まで再三聞いてきた、小山田の「いじめ」発言についての感想を書く。

 

まず、小山田のいじめ発言が商業誌に載ってしまったのは、「90年代」という時代が非常に大きい。

60年代後半あたりから2000年代くらいまで、カウンターカルチャーサブカルチャーとして「一般常識では明らかに悪いこととされていること」が本当に悪なのか? がずっと問い直され続けることとなった。

その「悪いこと」の中に、現状の閉塞感をひっくり返す何かがあるのではないか、という考えだ。

わりと無害な領域で言えば、大人のくせにアニメや特撮を観ること、エロいマンガを描いたり読んだりすること、などもその範疇に入る。有害な領域で言えば、やはりチョクの暴力行為であろう。

 

たとえば梶原一騎のバイオレンスは、「大日本帝国こそ最高で最強」と教育された少年・梶原が「敗戦」で周囲の価値観がまるっきり変わってしまう中での「裏の歴史」としての意味があった。

空手バカ一代」が、うっすら「伝統派カラテ」をディスって、「極真空手」を「身体に直接攻撃する『本物の空手』」としてアピールしたのは、いわば武装解除された戦後日本における「暴力性の肯定」と言ってよい。

そして表面上は、梶原作品も「弱いものいじめ」を「正しい」と書くことはなかった。

 

他にも「ハレンチ学園からしばらく続く永井豪アナーキー性であるとか、東映のバイオレンス映画とか、音楽にはうといが音楽業界にも「暴力性を肯定する」という潮流はあっただろう。

しかしそれらのほとんどは反体制的、反権力的なものであった。

 

それが80年代から90年代に入ったあたりから、「弱者への暴力」もサブカルチャーにおいて肯定する風潮になって来た。

理由はよくわからないが、普通に考えて、「強者への暴力」が反体制的な意味を帯びており、それがどうやら簡単には通用しないとわかって、おめおめと宗旨替えしたのであろう。

むろん、そんな中でも最良の部類に入る表現としては、「70年代の革命が成らなかった者たちも、敗者ヅラをしているが、『弱いものがさらに弱いものを叩く』という表現そのままに、自分たちのコミュニティのさらに弱い者を叩いているではないか」というような批判的言説もあったことはあった。

だから「弱者への暴力」を「問い直す」こと自体は、90年代当時でも思考実験としてはあり得た。

 

そんなわけで、小山田圭吾のインタビューをきちんと読まないまま、

「ああ、90年代の時代の流れに飲まれて、口が滑ったんだろうなあ」

という程度の認識しかなかった。

 

電気グルーヴの卓球、瀧の二人も、90年代にはよくいじめの話をしていた。

後から入ったメンバー「まりん」をいじり倒していたし、学生時代のいじめについても面白おかしく語っていた。

しかし、2020年現在、あるいは瀧が薬物で逮捕されたときも、「あいつらはいじめっ子でした!!」みたいな掘り返しは観ない。

それは、おそらく「語り」として厳密な線引きがあったからに違いない。

 

たとえば、「まりん」に対しては瀧と卓球は「メンバーの誕生日にプレゼントを贈り合う」というふうに決めていて(お互いのジョークまじりのいやがらせの一種か?)、何をあげたらいいか困っているまりんに「別に日用品とかでもいいんだよ。おれはもらった財布をいまだに普段使っているよ」などとアドバイスしていた。

本気でいじめていたら、そんなことは言わないだろう。

 

卓球、瀧の過去のいじめ話についても、私が聞いたかぎりでは「いじめ」というよりドッキリに近いものが多く、それ自体をエンタメとして昇華したかったようだ。「ケンカ」についても、ケンカになりそうになったら、「殴り合いのけんかにならないように持っていく」と卓球が話していたのを覚えている。

当たり前だが知的障害者をいじめた、という話も出てこない。

 

電気グルーヴは90年代の「いじめだってアリなんじゃないか?」という狂った雰囲気の中で、自身の線引きができていた。小山田圭吾はそこをまったくわかっておらず、調子こいてやや勇み足してしまった。

まあ、私はそんな程度の認識でいたわけだ。

 

しかし、このたび小山田圭吾のいじめ経験についてのインタビューを読んで、

「これは調子に乗って口を滑らしたわけではないな」

と確信してしまった。

 

正直、読んでいてその醜悪さにゲボが出そうになった(笑)。

 

しかし問題なのは、小山田圭吾と、学生時代に小山田がいじめていた人たちを再会させて対談させようとするライター、企画者だろうな。

まったく、何考えてんだ。頭狂ってんのか?

 

90年代はサブカルチャー界隈では「人権」が問い直されていた。しかし「人権」が問い直されていたからと言って、社会的弱者を「人権がない人」として抑圧していいわけがない。

この辺のことは、90年代は本当にひどかった。

そして、「弱者へ暴力をふるっていいんじゃないか」という変な問題提議は、ここで断言するが、60~70年代に「強者(権力)への暴力が、完全敗北したから」である。

 

内ゲバの歴史を観てみてもわかる。内ゲバでどうなったんだ。内ゲバで革命が起こせるのか。いや別の言い方をすると「内ゲバ」とは、革命のための後退的な所業である。

内ゲバは内部のトラブルを解消することだけに意味がある(と思われていた)からだ。

 

内ゲバが流行れば、そりゃ、そんな雰囲気を知っていれば「いじめ」も流行るだろう。

小山田は学生運動していた世代ではないが、時代の雰囲気はそんな感じだったのだろうな。

 

しかし、小山田の外堀を埋めた連中(とくに担当ライター)は、いくら時代の影響を受けたとはいえ、頭が狂っていたとしか思えない。

 

そもそも、小山田がかつていじめていた人物と再会したとき、いじめていた側が、ドスでも日本刀でも持ってきて小山田を惨殺するかもしれない、とか考えなかったのだろうか。

 

もうそこからして、担当ライターが「いじめられっ子」をナメきっていることがうかがえる。

おそらく、対談を企画したライターは、再会したら小山田といじめられっ子は、すぐに学生時代の関係性に戻るという先入主があったのではないか。

 

いじめられっ子をバカにするのもいいかげんにしろと言いたい。

 

しかし、ため息が出る。90年代は、サブカル界隈では、60~70年代の学生運動の敗北から(自分たちがそのつもりがなくても)あがいていた。

その「あがき」のひとつが90年代に連なる80年代の「面白主義」(主義主張や思想よりも面白さを優先する考え方)だったし、対象をからめ手でおちょくる「パロディ」だったわけだが、そこに「暴力性」が加わってくると、小山田圭吾の学生時代みたいなことに(残念ながら、一部では)なってしまったということは言えると思う。

 

早い話、小山田圭吾にいくら音楽的才能があるのか知らないが、「90年代鬼畜トーク」に関しては、彼にまったく才能がなかったということだし、その「才能のなさ」に気づいていたのかいないのか、煽った周囲もそうとうに罪は重いと思う。

 

繰り返すが殺人犯だろうが連続強姦魔だろうが、とんでもない才能を持っている人間は実在する。問題はその評価だ。

本質的には、その人の人生と「表現」は切り離して考えるべきだろう。そうでないと「性格は悪いがつくるものは良い」とか、そういうことをいちいち精査しなければならなくなってしまう。

だが一方で、エンタメ作品は、「いくら作品と別と言ったって、ああいう言動をされると、ああいう態度を取られると醒めるよなあ」という、消費者側の「気分」もある。

アンジャッシュの渡部の「すれ違いコント」の本質と、「多目的トイレで浮気していた」ことには何の関係もないが、「あんなことしているのを知っちゃったら、観る気なくすよなあ」ということはある。

 

まあ何にしろ、小山田圭吾のいじめに関するインタビューは、インタビュアーも含めて90年代サブカルの最悪の部分だろう。

 

小山田圭吾は嫌いでも、90年代は嫌いにならないでほしい。

 

まあ、90年代に何の義理もないのだが。

90年代、おれに金くれよ。

 

おしまい

 

(追記)

nittag.hatenablog.com

このブログ解説の理由とは?

こんにちは。安達祐実の兄です。

今、何をやってるんでしょうか。

(急にキレて)知らねぇわ!

 

ここからゲームブックではふたつのルートに分かれる。

 

ひとつは「平静な状態から急に客を批難する」というギャグとして「猫ひろしコース」。

もうひとつは「うっせぇわ」に似ているので「うっせぇわコース」である。

 

ところで猫ひろしはかなり好きだが、「うっせぇわ」は歌詞を観ただけでウンザリして一度も聞いてない。

好きな人がいたら、申し訳ない。

 

なかには「うっせぇわ」を理解しているつもりの大人たちは、何も理解していない、という主旨のややトリッキーなコラムも現れたが、「うっせぇわ」と言う歌自体を初見で嫌いすぎたため、そのコラムも半分読んだところでやめてしまった。

 

とにかく、歌詞の内容が小さすぎる。

むしろ「なんでこんな小さいことで歌詞が書けるんだ! この人は天才だ!!」

と思ったりもする。

 

正直、「うっせぇわ」と比較されがちな「ギザギザハートの子守歌」にしても「十五の夜」にしても、「小さい歌詞だなぁ」と思っていた。

「十五の夜」は、まだしも「進学校に行っているおぼっちゃんが、不良ぶりっこでもするしかない閉塞感」みたいなものがあるのだが、「ギザギザハートの子守唄」を、「リアルな不良の歌」として聞いている人、いたんでしょうかね? いたんだろうな。

 

「うっせぇわ」についても、「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい」、「会計や注文は先陣を斬る」と言われても、

「いやあ、それくらいはやりなさいよ。せめて。」

という意見しかない。

 

しかし「ギザギザハート」にしろ、「十五の夜」にしろ、わかりやすい方が売れるので、「うっせぇわ」も売れたんだろうね。

 

私は「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい」、「皆がつまみ易いように串はずしなさい」、「会計や注文は先陣を切る」という「うっせぇわ」終盤の歌詞がことさら気になったんですよね。

いや、それ歌詞にするほどのこと? あるいは、何かの「たとえ」としても疑問が残る。

たとえば「女性だからお酌しなさい」とか言われたらむかついてイヤだというのはわかる。

だけどさあ、「いやそりゃよくないよ! そんなことやらされてんの?」ってぜんぜん思えないんだよね。

 

いちおう、「ギザギザハートの子守唄」では、歌詞の内容が不良っぽい内容なのよ。仲間がバイクで死んじゃったり。「十五の夜」も、盗んだバイクで走り出したりして、やっぱりそれはよくないことであり、ちょっと悪いやつのすることだよね。

 

だから「うっせぇわ」には三十代以上が理解できない、若者のいら立ちが隠されている、とか言われても「はぁそうですか。じゃどうぞご勝手に」としか言いようがない。

意地の悪い言い方をすると、会社内のハラスメントがだいぶ解消されてきた中で、「皆がつまみ易いように串はずしなさい」ということまで気に食わないやつが現れたんだな、上等だよ、じゃあ飲み会できっちり拒否しろよ。という気持ちしかない。

 

私は現在54歳、同時代の因習になじめず、かなりイヤだった方だが、その私が、

「焼き鳥から串を外すのが、そんなにイヤなら、明日から会社来なくていいです」

という内容なのだ。

 

とまあ、今さら「うっせぇわ」についてブログを書いても面白くなるわけないので、死にます。

 

死因は、どぶ川のにおいを毒ガスと勘違いすることによるショック死。

 

あ、「このブログ解説の理由とは」ですが、

 

中高年の「目立とう精神」です。

 

ではまた。

女性アイドル・クレしんものまね問題

アイドル番組、地上波でも配信でも何でも良いが、「女性アイドルに特技をたずねて、『クレヨンしんちゃんのものまねです』と言われるとキツい」という話は、よく聞く。

 

というか、「天体戦士サンレッド」のかなり初期にもネタにされていたので、2000年代半ばか後半くらいには、このことはすでに問題視され始めていたということだ。

(このときの「サンレッド」の「アイドルのクレしんものまね」の料理の仕方はもう一回、ひねっており高レベルなものだったが、それはまた別の話)

 

今が2021年だから、少なくとも15年くらいは「アイドルがクレしんのものまねをする問題」は、くすぶり続けてきたと言えるだろう。

 

しかし、まあどうでもいいことではある。この世にはそんなことより大切なことがたくさんある。

だが私がこのことについて、わざわざブログに書く気になったのは、昨日、ユーチューブで、今まさにはばたこうとする新人アイドルが、まだ「クレヨンしんちゃん」のものまねを、何の工夫もなくやっていたからだ。

それに対してMCの芸人は、死んだ目をしながら、「お、王道を今あえてやるって、逆に新しいよね!」みたいなことを言っていた。

出演していたアイドルグループを完全にフィーチャーした企画だから、そう言うしかないだろう。

 

しかし、言っても2021年である。とっくの昔に「批判対象という意味でネタ化」しているものまねである。もはや「アイドルは特技をメインにやっているわけではないから」とか「何でもいいから印象に残ることをすべき」と言ったエクスキューズでは抑えらないところまで来ているはずなのだ。

 

他にも、かつてよくあったが最近なくなってきたものを含めて、「特技は?」と聞かれてアイドルがやっていた「ものまね」は、

 

・ミッキー、ドナルド、スティッチなどのディズニー系

・「子供の頃に何回も観たのだろうなあ」と思わせる「ジブリ」関係

・「テレビ番組で、犯罪者や問題行動を起こしている人の声を、高速にしたり低速にしたりしたときの声」

・「やしろ優芦田愛菜のものまね」

・(クォリティが高ければ良いが)「そのアイドルグループを知らない人にとっては面白くない、メンバーのものまね)

 

もうどれもこれも、つまらねぇんだよ!!

アイドルだから、その場で盛り上がってワチャワチャできればそれでいいのだが、これらのものまねはもう「ワチャワチャ」すらできない。

私はこれらのアイドルのものまねを見せつけられると、真っ白な何もない空間に、一人ぼっちで立たされているような気分になる。

 

このような「ベタすぎるものまね」が横行する理由、ギョウカイ人ならぬ身としては理解不能なのだが、普通に考えて、

「製作者サイドがそれでいいと思っている。マネージャーも含めて。」

としか結論が出せない。

 

しかし短時間の自己紹介で爪痕を残す、という意味でも逆効果だろう。

 

だから私は「今のアイドルは、昔の政治家のものまね、昔、今のおじさんたちがこすり倒してきたものまねをやれ!」とかねがね言っているのだ。

 

田中角栄、辻本清美の「総理! 総理!」、森進一、五木ひろし、たけしの「コマネチ!」も「クレしん」よりはマシだろう。

私はプロレスのことはよく知らないが、昭和・平成に活躍したレスラーのものまねも、おじさんたちには、まったく似てなくても喜ばれるはず。

これらなら、似ていても似ていなくても、つっこめるし、「なぜやろうと思ったの?」とMCに聞かれる可能性もある。

 

しかし、だれもやろうとしない。

 

私は今でも、鉱石ラジオから、優しい声で「あなたの提案、間違っていませんよ~」という声が聞こえるのを待っている。

 

おわり

マンガレビュー ウダウダやってるヒマはねェ!

マンガレビュー


・「ウダウダやってるヒマはねェ!」全21巻 米原秀幸(1993~96、秋田書店

90年代、週刊少年チャンピオンに連載。東京・桜城高校(おうぎこうこう)に入学した島田亜輝と赤城直巳の悪ガキコンビは、勝手気ままに悪さをしまくり、当然、校内の不良たちに目をつけられる。ケンカ自慢の二人は、挑んでくる不良たちを倒して仲間にしていくが、彼らの強さは他の地域の不良たちにも知られるところとなり、次々と戦いを挑まれる。
自由に生きたい亜輝と直巳は、ふりかかる火の粉を払うために、常にケンカに明け暮れることになる。

リアルタイムでも読んでいたが、急に懐かしくなって読んでみた。最初は基本的に「まあまあ普通のヤンキーマンガ」(ウィキペディアでは「ヤンキーマンガではない」と書いてあるが、どう考えてもヤンキーマンガだろう)だが、登場キャラクターのファッション、出てくる音楽、バイクなどは「いわゆるヤンキー文化」とは少々趣が異なる。何となくロックっぽいというかね。
硬派でまっすぐで仲間や後輩の面倒見のいい直巳、女好きで自称「快楽主義者」、ふだんからふざけてばかりいて誤解されることも多いが、実は仲間思いの亜輝、というコンビの対象が良い。
亜輝は一度キレると何をしでかすかわからないあぶなっかしいところがあり、我慢の限界を越えたら人も平気で殺しかねない。そんな彼を日常に引き戻すことができるのは、相棒の直巳や、桜城の仲間たちだけだ。

一見、「次から次へと強敵が現れてそれを倒していく」単純な話のように読めるが、「どうもそうじゃないらしい」ことが明らかになってくるのは「静岡の狂犬」と言われた「アマギン」との戦いに亜輝が勝利した後、アマギンがストーリーの合間にちょこちょこと顔を出し始めるところからだろう。
アマギンは亜輝に負けても、そこに友情関係が芽生えることはなかった。しかしずっと敵対関係にあるかといえばそういうわけでもなく、アマギンが亜輝に妙にちょっかいをかけたり、逆に協力的な態度を取ったりする微妙な関係となる。

アマギンは元から「狂犬」と呼ばれた、「これ以上やったらまずい」という「不良」の不文律から逸脱した少年である。すなわち、自分が傷つくことや死ぬことには無頓着に見える。逆に敵対者への攻撃に「引き際」がない。
亜輝は、そんな彼に自分との類似性を見出してしまう。
簡単に言えば、亜輝を「日常」から逸脱させようと「誘惑」する存在がアマギンなのだ。

やがて、亜輝はアマギンと彼の腹違いの兄である荒場凪との戦いに巻き込まれてゆく。
未知のドラッグ「スクランブル・ハロウィン」を扱い金儲けをしている荒場凪は、ただ好きなことだけをやっている不良少年たちの価値観では動いていない。要するに裏社会の「プロ」だ。しかしそれでいて、同時にプロにはあるまじき狂気性をも備えていた。
 アマギンは幼い頃からそんな兄との対立の中で、日常から逸脱するほどの暴力性を育てていったことがあきらかとなる(ドラッグの実験台にもされていた)。
そして亜輝は、ある一件で、何の義理もない、むしろ緊張関係にあったアマギンの「かたきを取る」ために、荒場凪の手下たちと戦うことになる。
 こここそが、本作のキモと言っていいだろう。仲間のために命を賭けるヤンキーマンガは山ほどあるが、微妙な敵対関係にある男のために命を賭ける作品はなかなかない。

そして、亜輝がそこに命を賭ける理由は、アマギンに「あちら側の世界に行ってしまった
」自分自身を観ていたからだ。別の言い方をすれば、アマギンは、(おそらく荒場凪への復讐のために、具体的には「殺す」ために)、亜輝を「自分と同じ世界に来い」と誘惑し続けるのだ。

ヤンキーマンガは、「真に血と暴力の世界に行くのか」、「多少荒っぽいことをしながらも日常生活にとどまるのか」というバランスの問題が、裏テーマとして常にある。そのことに真摯に向き合う作品もあれば、ご都合主義的にごまかされる作品もあるが、ヤンキーマンガはエンタメなのでどちらが上ということはない。それにしても、本作「ウダウダやってるヒマはねェ!」は、暴力の世界のギリギリのところまで行って、そう不自然でないかたちで日常生活に戻ってくるところが見事な作品だった。

また、本作はヒロインが複数人いるのも、ヤンキーマンガとしてはめずらしい。直巳には途中から彼女までできる。憧れの女教師と結婚する仲間もいる。常に男女がいりまじったグループでワイワイやっているところも、ホモソーシャルな関係性が強調されるヤンキーマンガとは一味違った側面を持っている。
ちなみに、高橋ヒロシの「クローズ」が月刊少年チャンピオンで連載されていたのが1990年から1998年だというから、その連載時期に本作は重なっているが、女性のまったく出てこない「クローズ」と本作は、きわめて対照的な作品と言えるだろう。