新田五郎のゆかい・おもしろ・ときめき日記

思ったことをブチかます、なんびとたりとも止められねえ

もうダメだの歌

何もかも 面白くない

テレビも動画も つまらない

道を歩けば 犬に噛まれ

家にいても 窓から飛び込んできた犬に

噛まれ

 

眠っていても かなしばり

起きていても 「起きてる状態でのかなしばり」

 

借金取りが 納豆臭い

借金もいやだが 借金取りの納豆臭さが 気になって仕方ない

 

なぜ人は ゴルフのときに「ファー!」と叫ぶのだろう

そうネットでつぶやいたら

 

「いつでもファーっていってるわけじゃないでしょ」

という引用リツイート

 

はあ ゴルフ博士ですか

さぞかしゴルフに強いんでしょうね

 

そう思い彼のプロフィールを調べると

家族を養うため

月のこづかい

10円だった

10円で コーラ飴を買って

それをしゃぶるのだけが趣味

 

あとは一日 18時間

ナイトプールではしゃいでいる若者に

媚びへつらう仕事

 

悲しい男だった

 

男にとってゴルフはあこがれだった

 

やっと休みが取れたある日の夜

 

彼は拾ってきた棒きれでゴルフのスイングをマネしてみた

 

するとそれが通りがかった紳士の頭を直撃

死んでしまった

 

ところで「死んでしまった新弟子」

というダジャレを考えたので

 

みなさん 使ってください

 

気前がいいと思われたいから

気前がいいと思われたいから

 

(完)

村上春樹「騎士団長殺し」感想

・「騎士団長殺し」 村上春樹(2017、新潮社) 
 
途中まで読んで、放り出していた長編小説をついに読破。
それが2017年の小説「騎士団長殺し」だ。
もっとも、刊行当初、120万部と大量に売れたため、ネット上の感想が一種の大喜利みたいになることを予想して、そういうことがアホらしく、時間を置かないと読めないな、感想も書けないな、と思ったという部分はある。
 
突然、主人公の「私」が、妻に「男ができたから別れて」と言われるところから物語は始まる。
ショックを受けた売れない画家である「私」は、車で一人、何か月も傷心旅行を続ける。
ようやく少し落ち着いたので、友人・雨田政彦から、彼の父であり高名な日本画家である雨田具彦の家を留守番代わりに借りないかと言われ、そこに住むことにする。
彼の生業は依頼されて肖像画を描くことだったが、それもしばらく休むことにする。
 
雨田具彦は齢90を越え、認知症で施設に入ってしまっている。
ある日、「私」は、雨田具彦の未発表の絵画「騎士団長殺し」を家で発見する。
それは雨田具彦の最高傑作と思える作品だったが、なぜか隠されていた。
出来事としてどっちが先か忘れたが、「私」は、免色渉(めんしきわたる)という、近所に住む五十代の男から肖像画を描いてくれと頼まれる。
免色には、「私」に肖像画を描いてもらいたいある事情があった。
そして「私」の住む雨田具彦の家の裏山に、謎の石室があることがわかる。
その石室の中からは、なぜか鈴の音が鳴りやまない。
とかなんとか、いろんな出来事が交錯していく。
 
とにかく読むのが大変で、発売直後に一度、上巻の終わりくらいで挫折している。
理由は「謎」が並行して次々と現れ、下巻の300ページくらいまで、一向に解明されないからだ。伏線の回収がない。
他の村上春樹の長編と比較しても、読みづらかった。
とくに肖像画を描いてもらう件と同時に、石室の話が出て来たとき(上巻の中盤を過ぎたあたり)には、集中力が飛んでしまった。
 
ねじまき鳥クロニクル」以降、村上春樹の長編はいつも同じじゃねーかという批判もあり、まあそのとおりなんだが。
それより、村上春樹の長編小説を読んでいていつも不思議に思うのは、
「人間の心の弱さ、醜さ」みたいなこととは直結しない「絶対的な邪悪」が必ず登場することだ。
そういうのが「人間の愚かさ」みたいなところに今ひとつ、帰結しないのは大人が読む作家としてはめずらしいと思う。
群集心理とか全体主義とかともちょっと違うようだ。
その「邪悪」は、人間の外部に存在するかのように、村上春樹の長編では描かれることが多い。
 
それにしても「読んでも読んでも終わらない」と感じた小説だった。
ということは、物語のバランスが良くないということだ。
 
物語的には、それまでになく遠回しに「親が子に何かを託す」みたいなことがテーマのひとつになっているが、「村上春樹もトシをとって、さびしくなって子供が欲しくなったのかなあ」とは思った。
なんかそういう気分的なものを「理念の継承」みたいに書いて壮大な話にしようとしているのかな、と。
 
なんにしろ、村上春樹作品には「世の中は戦っていけばどうにかなる、と思っていたのにどうにもならなかったが、それは何らかの超次元的なズレがあってそうなるので、ファンタジーの力を借りてそれが修正できるはずだ」というテーマを執拗に繰り返している。
そこが、面白いと言えば面白い。
 
 
村上春樹には「パン屋再襲撃」という短編があるが、あのプロットを長編にしたてて、ずっと繰り返しているような感じである。
パン屋再襲撃」は、若い頃、空腹のため友人とパン屋を襲撃した主人公が、パン屋の主人に「黙って私とクラシックの曲を聞いてくれたらパンはほしいだけやる」と言われ、そのとおりにしてパンをもらってきた過去があるが、妻に「もう一度パン屋を襲うのよ」と言われて、もう一度襲いに行くとそこはマクドナルドになっていた、というような話だったと思う(「パン屋襲撃」という短編の続編らしいがそっちは読んでいない)。
 
つまり、パンを暴力的に奪うこと自体に意義があったのに、若い頃はそのことに気づかず、もう一度襲いに行ったら、パン屋はなくなっていてマクドナルドになっていた。
本来、自分が考える「正しいやり方」で物事を実行しようとしたがズレが生じ、やはりうまく行かないというような話である。
 
村上春樹は、心の奥底に「超・人間的な邪悪を思いきりぶったたきたい」という欲望を常に持っているが、それをストレートに書いてしまうこともためらわれる。なぜなら、直接的には彼が体感した60~70年代の学生運動が失敗しているから。
 
だから、彼の長編は何をどう書いても「直接、邪悪をぶっ叩く」ことをものすごく大きな遠回りをして描くことになる。
本作で言えば、雨田具彦がウィーン留学中に反政府運動に関り恋人を殺され、自分が留学中には第二次世界大戦中で、出征した弟がめちゃくちゃヒドイ目にあって戦後、自殺している、その無念をどうやってはらすかということだ。
 
現実世界で起こったヒドイ出来事で、精神をむちゃくちゃにされた人間が、恨みを晴らすにはどうすればいいのか。
そのことだけに、ほぼ300ページくらいを費やしていると言ってもいい。
 
しかしまあ、長すぎるよな。
 
なぜ同じことを繰り返すかというと、「ファンタジーの力で現実のバランスを保つ」ことなど、小説の世界でも描くのがむずかしいからだろう。そこは村上春樹は、真剣に考えていると思うけどね。
 
おしまい

創作物に対する空疎な感想あるある

春。

もう桜は散ったんですか? 散ってないんですか?

あがってんの? 下がってんの?(今はやりの曲でみなさんのごきげんをうかがうよ)

 

自分はマンガを描いたり小説を描いたりさまざまなことをやってきたが、まったく芽が出なかった。

このことを私は繰り返し発言しており、そのたびに「そんなことないよ、面白かったよ」と言ってくれる人が地球上に三人くらいいる。三人くらいいることは事実であり、そう言ってくれる人には本当に申し訳ないと思うが、私は狭義の創作活動をやって、手ごたえを感じたことはただの一度もない。

 

面と向かってけなされたことはあまりないが、やはりいちばん多いのは「無視」だろう。もしくは「当たり障りのない感想」である。

そんなわけで「創作活動に対する当たり障りのない感想」について箇条書きにしてみたい。

 

・「これだけ書いたのって、すごい根気だね」

内容にまったく触れていない。本当に素朴な感想としてありえなくはないが、根気とか言い出したら週刊連載をしているプロのマンガ家の方が一兆倍くらいあるだろう。

 

・「おれはこの〇〇というキャラクターが好きだな」

この「〇〇」というのが、物語本編にたいして関わらないどころか、おいしいところだけ持って行く名脇役というわけでも、手塚治虫のマンガに出てくる「ヒョウタンツギ」みたいなキャラクターですらない。ただのモブキャラ。

こういうふうに言われるということは、物語そのものがまったく面白くないか、感想を言う当人が、物語を理解してないことになる。

 

・「この作品、〇〇(有名作品)の影響を受けてますよね?(聞かれて同意すると)やっぱりそうだ」

正直、何を言いたいのかわからない。描かれた創作物は判じ物ではない。たとえばエヴァだって、ウルトラマンとかから影響を受けたというし、もはや感想としては面白いともつまらないとも言っていないわけで、作品そのものに興味がないのがまるわかりである。

 

・「あとがきにこういうふうに書いてありましたけど、本当なんですか?」

作家ぶって「あとがき」なんかつけるとこういう感想が来る。この「本当なんですか?」は作品に関わる部分ではなく、「最近引っ越した」とか「作品執筆中に大風邪をひいてしまった」みたいなプライベートな部分である。こういう感想をくれる人は、やはり本編には興味はないか、あとがきしか読んでいない可能性もある。これがイヤで、創作作品にあとがきをつけるのはなるべくやめることにしている。

 

・「続編は出るんですか?」

これ一見、最高の誉め言葉だと思うだろう。本当にそういう場合もあるが、感想を言う側が、「そう言っとけば描いた側は喜ぶだろう」と思って言ってくる場合もあるし、中には主人公がラストで死んでしまっており、SFやファンタジーのように設定として生き返る可能性などまったくないのに、そういうことを言ってくる人もいる。つまり作品内容を理解していないのだ。

自分の物語の内容について、読んだ人に説明するのは創作活動について最大の屈辱である。そのことをみんなに理解してほしいが、まあ無理だろう。

なお、めちゃくちゃつまんない映画の最後の最後に、続編をにおわせるシーンがちょっとだけついていると「こんな駄作に続きなんかあるわけねぇだろ!!」と怒りがメラメラと湧いてくるが、その逆パターンとも言える。

 

・「この作品を読んで真っ先に〇〇(だれでも知ってる超名作)を思い出しました。あれに匹敵しますよ」

過剰すぎる誉め言葉も、「めんどくさいからそう言っときゃいいだろう」という場合が多い。黒沢明ジブリアニメに匹敵すると言われたら、比較するものが大きすぎてバカにされていると考える方が普通である。

 

・「このキャラにはモデルがいるんですか? これって作者であるあなたの経験ですか?」

創作物を通して、作者の私生活を覗き見ることしか興味がない人はこの世にいる。面白いかつまらないか、会話のキャッチボールが何回かあってからこの質問が出るのはわかるが、いきなりこれが来たら、作品そのものには興味がないと考えていい。

 

・「この〇〇ってセリフがいいですね、このキャラクターがこういう行動を取ったところがいいですね」

これだけでは、「当たり障りのない感想」とは言えないのだが、問題はその内容で、物語の中で自己陶酔的だったり、クサくてちょっと恥ずかしいシーンをわざわざピックアップして質問してくるヤツがいる。

ここまで来ると、もはや波風を立てまいという気遣いがあるわけでもなく、完全に「イジって来ている」のだ。そういうタイプの感想を聞くと本当にイヤな気持ちになる。物語なんか描かなければよかったと思う一瞬だ。

 

・「〇〇さんがホメてましたよ」

確認しようがない遠い知り合いを引き合いに出して言われる場合、自分がマイナスの感想を言いたくないので、他人の名前を出してきているだけである。

 

考えていて思い出したのは以上である。もっとあるかもしれない。

 

おしまい

プラスの感情を取り戻したい、楽しい気持ちになりたい

10年以上前、母親がある日、突然倒れ、出産以外での初めての入院をし、それ以降、段階的に母親の介護が必要になり、施設に入ってもらい、昨年亡くなった。

その経過についてはとても言葉では言い表せない感情があるが、こういうことはまず他人さまは興味がないと思うので書かない。

 

書いておきたいのは、長年の介護生活で、

「自分を楽しい感情に持って行く」

ということがむずかしくなってしまったということだ。

最初にお断りしておくが、親を介護することになったからといってだれもがそうなるわけではない。

あくまで私の個人的な話である。

 

親の介護には実質的な終わりはない(「V字回復はない」と、何度も専門家の人から言われた)。

あるとすればそれは親の「死」である。

 

つまり私にとっては「何をどうがんばっても親は必ず最終的には死ぬ」という事実を踏まえながら、いろいろなことをやっていかねばならなかった。

当たり前だがもちろん、私自身もいつか死ぬ。

 

母親の状態は「まあまあ良い」、「とくに問題はない」という状態から、病気になったり、歩けた頃は転倒して骨折してしまったりというアクシデントがあり、そんな中でゆるやかに、何年もかけて体力が落ちてくるという感じだった(もちろん個人差はあるだろう。というか「あって当たり前」の世界である)。

 

このため、私自身が感情を常に抑えるのが習い性になってしまった。

この心情は説明するのが面倒なのだが、「感情を精神力でコントロールする」という意味ではまったくない。

来たるべき親の「死」にそなえて、

「無意識的に気分が高揚するのを抑えてしまう」

ということだ。

めちゃくちゃ簡単に言うと、食べたケーキがものすごく美味しかったとしても、

「うわー! 何これ! すげーめちゃくちゃうまい!!」

という感情のすぐ後に、

「でもこうしている間も親は衰え続け、いつか亡くなるんだよな」

と思い、気分が(どん底まで沈まないにせよ)フラットになってしまうのである。

無になってしまう。

 

そんなわけで、だんだんと、何を観ても感動しなくなっていった。

 

ただし、不思議なことに「笑うこと」はできた。お笑いやギャグマンガは大好きでよく観る。ウツになると笑うという感情もなくなってしまうという。

そういうところにまで陥ったこともあるが、何とかして盛り返し、「笑う」という感情は今のところ、保持できている(まあ、なんかあって、突然すべての笑いの感情が失われるかもしれないが)。

 

ただし、新型コロナ前に、すでにお笑いライブに行く回数は減っていた。

以前、どこかのお笑い芸人の人がネット動画で「常連客が、ライブに突然来なくなるのはなぜなのか?」と話し合っていたが、私の場合は完全に介護のことが関係している。

 

お笑いライブを観ている間、携帯電話を切っておかなければいけない。

しかし、その間に母親の具合が悪くなって、施設から電話がかかってくるかもしれない。

そうなってくるとどんどん集中力が落ちてくる。最初にお笑いライブに集中できなくなったので行かなくなり、芝居も映画もだんだん行かなくなった。

 

どんなにすばらしい芝居や映画を観ても、終わった後に携帯の電源を入れたら「母親が危篤です」みたいな留守電が入ってたら、それまでの感動などふっとんでしまうだろう。

 

そんなわけで、徐々に自分の感情は死んでいった。

母親が亡くなった今でも、そういう感情から脱し切れていない。

 

「自分は気分が高揚してはいけない人間なのか?」

「気分が高揚してはいけない、罰せられた人間なのか?」

はっきりそう考えているわけではないが、あまりに感情を抑えた期間が長かったので、無意識に、常にそういうふうに思ってしまうようになったようだ。

 

もうこの世は終わり。

どうせ人は必ず死ぬ。

最終的には地球は太陽に飲み込まれ、人類は滅亡するか、

どこか別の星に逃れたとしても、宇宙の寿命でみんな消える。

 

そう考えると涙が出てくる。

 

そして粘土をむさぼり食べる。

 

新発売、食べれる粘土、タベネンドー。

 

そして「リュウケンドー」の再放送を観る。

 

もうダメだ!!!!!

ちょいと一億、貸してくれ

それにつけても

金の

ほし

さよ。

(Fin.)

睡眠の習慣を変えたい

いきなりだが、私は夜は7時頃寝て、夜中の2時頃起きるという生活をずっと送っている。

これには具体的な理由がある。

母親が存命中、母親の入っていた介護施設から用事があり、電話がかかってくるとしたら、だいたい朝の10時頃から、午後7時頃までなのだ。

 

それ以降、もし電話がかかってくるとしたら、母親の体調に関するかなり深刻な理由があることになる。

 

だから午後7時を過ぎると気分が落ち着かなくなってくる。作業も集中してできない。

「じゃあ寝てしまおう」ということにしていたのだ。

 

もともと、私は夜更かしして昼頃起きる、みたいな生活が好きではなかったことは確かだが、午後7時に寝てしまうとなると、映画鑑賞もむずかしくなるし、お笑いライブに行ったり観劇することもむずかしくなる。

 

そんなわけで、何とか睡眠の習慣を変えたいのだが、なかなかうまく行かない。

 

実は催眠の習慣がなおらない理由がもう一つあって、

深夜帯のテレビ番組の方が面白いからである。

 

テレビもメディアの最前線から脱落してしまったような雰囲気は否定できないが、

 

「テレビはくだらないから観ない、持ってない」みたいなことを言いつつ、ネットのフェイクニュースを信じているようなやつらに「テレビはもう終わったよね」などとは言わせないのだ。

 

おしまい

岡本姫奈も擁護する

私は、岡本姫奈も擁護し続けようと思います。
ただし、顔がまったく好みじゃないんだよな。
なんとなくモデルっぽいよね。
「数万人の中からわざわざ問題のある中西アルノや岡本姫奈を引き当てている運営って」
というツイートがありましたが、これは話が逆で、「日常的にかわいくてめちゃくちゃ目立つ女の子」の、平均的な行動を取っていたのが二人、ってことじゃないんですかね(乃木坂にふさわしいかどうかはまた別の話)。
 
あんだけかわいけりゃ、彼氏もいる確率は高いし配信なんかもやってるでしょう、今の時代。
 
なんで私が意固地になってこういう子たちを擁護するかというと、批判側の「普通の企業なら活動辞退が妥当」とか「一期生が築いたものを崩さないでほしい」と言う発言など、本当にみんな生真面目で純粋で、なんだかイヤだから。
でもそういう人たちは乃木坂のファンゆえにそう言っているのだからまだいいとして、その周縁には何百万人という「ただの野次馬の特定班」と「陰謀論を信じそうなアホ」がいるからです。
 
「斎藤飛鳥を呼び捨てにしていた」という批判があったらしいですが、そりゃ(いまだ)関係性のない有名人だからそうしてるだけでしょ。
職場の先輩を陰で呼び捨てにしているわけじゃないんだよ。
 
こういうことで騒いでいる人のかなりの人数が「乃木坂のことなんかどうでもいい、ただ知らん巨大組織がガタガタになるのがメシウマ」という人たちでしょう。
品がないんですよね。
私にもそういうところはあるけど、それが正義だとは思ってませんので。
乃木坂46時間TVの最中に、彼氏とディズニーデートに行っていた」という批判についても、それが本当なら心証は悪いですよ(笑)。
心証は悪いけど、そういことに目くじら立てるのって、
「内定もらったのに社長が出した本を読んでない」
みたいな、イヤな先輩の批判の仕方だとも思います。
 
じゃあ加入決定していた子は46時間、一睡もせずに正座して観てろって言うんですかね。
テメエはやれブラック企業がイヤだの会社の飲み会がイヤだの言っといて、アイドルには似たようなことを求めるんですね。
今の世の中は「自分の境遇がおぼつかないから、他人をおとしめて留飲を下げる」という雰囲気が強すぎて、本当に気分悪いです。
ただし、ここまでいろいろ出てきてしまうと「乃木坂の運営っておじいちゃんなのかな?」とは思いますね。
ヒマ人がネットでほじくり返したことは、事前に運営でもほじくり返せるはずなので。
内情はわかるはずもないんですが「もうちょっとしっかりしろよ」とは思います。
 
しかし、乃木坂の運営も今まで完璧だったわけじゃない。
大人数のグループの神秘性というかアイドルで言うところの「尊さ」は確実に存在すると思いますけど、運営形態が完璧である保証はどこにもありません。
「表の神秘性」と「裏の泥臭さ」がグラデーションになってしまっているのが、大人数グループアイドルの良いところでもあり悪いところでもあるんでしょうね。
 
それにしても、やはり日本人全般は「処女性」に幻想を持ちすぎだと思う。
金川(やんちゃん)の恋愛スキャンダルについてもいまだに言われていて、金川はもうあと10年は、この件がついて回ると思う。
でも、ついて回る方がおかしいと思いますけどね。
「過去のストイックなメンバーがいかにストイックだったか」を引き合いに出してくるファンも大嫌い。オメーがやったわけでもねぇくせに。
だいたい、ノースキャンダルだった生駒ちゃんや白石麻衣、あるいは生田さんとか、その他いろいろ、引き合いに出してスキャンダラスなメンバーを批判している人は、松村はどう思っているんですか。どうせ松村が卒業のときだってムカついてたんでしょう。
でも松村の、乃木坂のコアなファン以外のところへの訴求力はかなり大きかったですよ。
だからこそ、残ったわけでしょう。
 
「清純さ」とアイドルの「華」は必ずしも正比例するとはかぎりませんよ。
 
かつての山口百恵中森明菜は、確実に「非処女性」を「幻想」として持っていたアイドルだと思いますが、もうそういうことが「アイドル」というカテゴリでは保持できなくなってしまったんだな、と感じます。
山口百恵は「時代と寝た女」と言われてました。ドキッとする表現ですが、それは彼女のパフォーマンスが必ずしも「処女性」のみで構築されていたわけではないことを意味します。
ある時期まで、アイドルは表現のレベルでは「処女か、非処女か」のギリギリを攻めていたんですが、いつの間にかアイドルソングのほとんどが「極端に性的な要素」は避けるようになりました。
70~80年代くらいは「清純なアイドルだってやることはやってんだろ」くらいに多くの人が思っていたと思いますが、今はもうそうじゃないんですよね。
 
話は岡本姫奈の話に戻りますが、彼女がデビュー前の動画配信で「芸能事務所に入っていれば、Nissy(西島隆弘) と付き合えたかもしれない」と言ったことも批判されてますが、
十代の女の子なら、それくらい言うだろ(笑)。
 
 
 
私は真夜中に、大和里菜(乃木坂イチ、スキャンダラスだったメンバー)の銅像に、他の人々ともに参集し、いろんなことについて祈りをささげるのだった。
デスノート」の最終回みたいに。

さようならMIYASAKO

雨上がり決死隊・宮迫が吉本をやめさせられ、その後、ユーチューバーを始めたあたり、たいして興味はなかった。

宮迫は才能あるお笑い芸人だと思っていたけど、めちゃくちゃファンというわけではなかったし。

しかし「雨上がり決死隊」が解散し、「牛宮城」の騒動がネット上をざわつかせているうちに興味を持ち、一時期、調べまくってしまった。

 

その後、いろいろあって無事、「牛宮城」は開店し、現状では人気店になっているようだ。

 

で、ここまで来て私の宮迫に関する「仮説」を書く。

 

それは、

「宮迫は、もはや人前でやりたいことなんか何もないし、大金を稼がねばならない理由もない」

というものだ。

 

根拠は何もない。

ただ、何となくそう思っただけである。

 

もともと、宮迫がユーチューブを始めた大義名分は「ユーチューブで話題になって、最終的にテレビに復帰したい」というものだった。

しかし、それは雨上がり決死隊の解散によって、遠のくことになってしまった。

 

ここで、「ユーチューブを続ける」動機のひとつを失う。

 

「食を応援したい」というのが大きなテーマとしてあるらしく、「牛宮城」の開店以外にも料理の動画やラーメン店のコラボ動画などを出している。いずれもかなり力を入れている様子ではある。

しかし、宮迫はアンジャッシュ渡部などと違いグルメを全面に出していたわけでもなく(そりゃーさんざん美味いものを食って来ただろうが)、今ひとつ説得力に乏しい。

 

「牛宮城」に注目が集まったのは、「宮迫は利益の出ない商売をしているのではないか、周囲からも騙されているのではないか?」と疑惑が浮上したからだ。

そして「コレクションの時計を売る」とか言い出して、余計に誤解に拍車をかけた。

 

しかし、オリラジ・中田が出演した動画の中で、「牛宮城の資金は、宮迫ともう一人の人物が株をほぼ半々で持ち合っている会社から出ていること」が明らかになり、「いざ出店して、儲からないとなったら撤退する準備もできている」ことが明らかになった。

 

(その後、持ち株をぜんぶ自分のものにしたとかしないとかいう話があったが、それが元会社の持ち株なのか「牛宮城」単体の話なのか、よくわからない。)

 

要するに中田が出演した動画の段階で「宮迫はたとえ牛宮城で失敗しても、路頭に迷うことはない」ことは明らかになった。

動画の中で「(開店にこぎつけるまで)「今まででいちばん働いた」と宮迫は言っていて、本心だとは思うが、それはなりゆき上、そうなってしまったにすぎないんじゃないかと思う。

 

どこか「当事者意識」が希薄なのだ。

 

驚いたのは、中田出演の動画で「牛宮城を経営しているのは会社」という結論が出たにもかかわらず、野次馬がいまだに「牛宮城」が失敗するかどうかをネット上で検討しているということだ。

まだまだ「牛宮城」をオモチャにできる、と踏んでいる野次馬の悪意が見えるが、宮迫が経済的に破滅するかもしれない、というのが「牛宮城」の経営に注目が集まっていた理由なので、成功しようが失敗しようが、宮迫が一文無しになる可能性はないのだから、「もはやどうでもいい」の一点に尽きる。

 

そして、そうした「いまだに牛宮城の話題にしがみついている」ネット野次馬の動きを観ると、きっちりしたコメディアンであり役者だった宮迫が、「嘲笑される」ことで注目を集めるように成り下がってしまったことを知ったのだ。

 

ユーチューブ上の宮迫は、常にキョロキョロ、オドオドしているように見える。もともとテレビでも「いじられるのが好きじゃないんだろうなあ」と思わせたが、ユーチューバーとしては新参者の彼は「いじられる側」に回らないとしょうがない。

だから常に「いじられる側」にいる。

正直、痛々しくて観ていられない。

 

ユーチューブ動画で明らかになったが、宮迫は自分からギャグを仕掛けるのも苦手らしく、さらにエピソードトークなどもそんなにうまくない。

 

「この人は何がやりたいんだ?」ということが、何本動画を観てもわからない。

 

こうなってくると「この人は成功しても失敗しても、どうでもいいのでは?」という疑惑が浮上してきて当然である。

ただし、宮迫をネタに動画をアップしている人たちは「宮迫はすべてがどうでもいいと思っているし、現状のすべてがなくなっても食っていける」という仮説は立てない(私の知るかぎりでは)。

 

もしもそうなら、宮迫はオモチャとしても意味がなくなってしまうからだ。

 

ま、「宮迫は失敗してもそれが致命的なことにはならない」という仮説は仮説にすぎないが、「本当に何をやりたいのかがわからない」のは事実だ。

 

「劇団をやりたい」とか言っていたが、本当なのだろうか?

 

なお「無駄なことをあまりやりたがらない」のも宮迫の芸人としての特性であるように思う。

多くの芸人は、あえて無駄な、そのパフォーマンスだけでは利益を回収できないことをやるものの、それが「芸人」としての評価につながっていき、最終的には「利益となる」という過程を踏む人がけっこういる。

 

宮迫の場合、やったことにすぐにリターンがないと気が済まないように思える。それもなんだか悲しい。

 

おしまい